lie,lie,lie

 いちから十まで洗いざらい正直に話すことがいつだって正しい答えじゃないことくらい分かり切っている、それにしたって。

 安居酒屋の狭苦しい個室の中、ネオンできらめくにぎにぎしい街並みは今日もまた、星空をかき消すように無機質な人工の明かりを遠慮もなしにまき散らす。自分もまたいつの間にかあの明かりひとつひとつの中に紛れ込んでいるだなんて、少しは立派になっただなんて誇ってもいいのだろうか。
「そういやさぁ」
 少しだけゆるめたネクタイの結び目のあたりをどこか手持ちぶさたな心地でさするようにしながら、おもむろに周は尋ねる。
「……つぐみちゃんって芸能人で誰に似てんのーとか、そういうのっ てやっぱ聞かれんの?」
「なくはないけど」
 どこか歯切れの悪さを隠せない答えと共に、ろくに手もつけていなかったお通しのおくらの小鉢に箸をのばしながら、目の前の彼は続ける
「聞かれたんだよね、要するに」
「……まぁ」
 ぽつりと吐き捨てるように答えれば、導かれるままに、じわじわとあの言い様のない違和感が立ち上る。

 特定の相手と付き合う気はないのか、好みのタイプは、芸能人なら誰が――『無礼講』だなんてもっともな建前ありきで、もっと下世話な話だっていくらだってあって。それらひとつひとつに丁寧にオブラートでくるんだ嘘をまぶしてかわすことなどごく当たり前のことで、そこに何の疑問も感じていなかったのは確かなのだ。
 その標的が特定の相手――運悪く存在を知られる羽目になった、周の『恋人』へと及ぶまでは。
「なんかさ、ぜんぶ嘘で塗り固める方がめんどくさいし、どっかしら矛盾してないかって気ぃはんなきゃいけなくなりそうじゃん。そこまですんのもすっげばかばかしいなって思うし。だからってさ、別れたってことにすんのもなんかやだなって」
 行きがかり上、『ばれて』しまったことは相談済みだった。それがひどく間の抜けた原因だったことも含めて。それでも、自分の生活に入り込むような特別な相手がいること、それを聞いてもらえることに、安堵していたのは確かなのだ。たとえそれが、どこにも居ない『誰か』であるかのような嘘を含んでいたのだとしても。
 力なく肩を落とすこちらを前に、宥めるようなひどく穏やかな口ぶりで、春馬は答える。
「いいって言ってくれたんだよね、瀧谷くんは」
「――むしろうれしいって」
 一世一代の懺悔の勢いで告げた言葉を前に、こちらの不安などみるみるうちに塗りつぶすかのような得意げな笑顔をかぶされたことはまだ、記憶に新しい。
「らしいじゃん」
「……まぁ」
 相槌を打ちながら、かすかに耳のあたりがちりちりと熱くなる。ぎこちなく視線をそらすようにしながら視界の端でその姿を追いかけるようにしても、ただいつくしみだけを溶かしたようなまなざしの奥には少しもからかうようなそぶりは見えない。いい子なんだよな、ほんとに。だからこそ、こちらだってこんな風にあまえてしまっているのは確かだけれど。
「前にも話したと思うんだけど」
 グラスに残った少し気の抜けたビールを流し込むようにしながら、春馬は答える。
「俺もそうだったからさ、反省してるとこはすごいあるわけね。カイが言ってくれるまでずっとそうだって決めつけてた。そのせいでどんだけあいつのこと傷つけたんだろうって思うし、取り返せないのも知ってる。もしかしたらカイ以外にもおんなじようにそやって傷つけた相手がいんのかもしれない。でもそのぜんぶに責任が取れるわけじゃないってことだって知ってる」
 ふかぶかと息を吐き出し、告げられる言葉はこうだ。
「みんなさ、なんでもかんでも洗いざらい打ち明けられるわけなんてないよね? そういうこと、勝手に望んじゃうのだって単なる身勝手じゃん。知ってほしいことだけ話すのが卑怯だとか、なんでもぜんぶ打ち明けるべきだとか、俺はそうは思わないよ」
「春馬くん」
 かすかに滲んだように見えるまなざしの奥に映し出されるのはひとかけらばかりの後悔と、それを乗り越えようと確かに前を向いているひたむきさのかけらたちで。
「ぶっちゃけた話ね」
 ずいぶんと嵩の減ったグラスへと、せっつくような勢いでなみなみとビールを継ぎ足しながら言葉が告げられる。
「周くんはさ、これから先もまだ会う気あんの? その人たちと」
『しのぶ』のことを都合良く誤解している相手と。
「んんー……」
 自分なんかに根気よくつきあってくれた上に、そんな状況を逆手に取った上で込み入った話に巻き込んだことへの感謝は確かにあるけれど、それでも。
「……なんていうかその。いっかなって」
 どこか重苦しい心地で答えれば、途端に返されるのは、こちらの些細な曇りなどあっけなく打ち消すかのようなやわらかな笑みだ。
「じゃあいいんじゃん? それで」
「そういうもん?」
どこか呆気にとられたような心地で答えるこちらを前に、おだやかな笑みと共に、背中を押してくれるかのようなあたたかな言葉がふわりと舞い降りる。
「そうでしょ、ふつうに。縁ってそういうもんだし、それって別に薄情でもなんでもないじゃん。周くんがこれからもあんまり言いたくないって思うんなら、言わなくたっていいじゃん。俺はいつでも聞くからさ、それで良くない?」
 途方もない安堵感を前に、息をつくのも忘れそうになるのは仕方のないことで。
「――春馬くんさぁ」
 少しだけぐらりと揺れたまなざしを傾けるようにしながら、周は尋ねる。
「実際さ、つぐみちゃんって芸能人の誰かに似てる?」
「……聞くんだ?」
 わずかに震わされた言葉と共に、まだ着慣れない様子の糊のきいたワイシャツの肩がぎこちなく揺らされる。
「や、慣例かなって思って」
 少しだけ口元をゆるませて尋ねるこちらを前に、ぎこちない笑みと共に告げられる答えはこうだ。
「なんかその、乃木坂? の誰かに似てるらしくて。よくわかんないんだけど」
「めちゃくちゃかわいいんじゃん、それ」
「まぁ、その……」
 暗転したままの注文票の端末を見下ろしながら、その表情は隠しきれないほどにみるみるうちに赤らむのがわかる。

 否定しないあたり、微笑ましいというのか、なんというのか。



少しだけ揺らいだ足下を一歩一歩踏みしめるように歩みを進める帰り道、見上げたアパートの部屋の明かりが点されているのを確認したとたん、否応なしに心はゆるむ。
「ただいまー」
「おかえり周。お風呂入る? 今日ねえ、入浴剤入ってるよ。きんかんのやつ」
 ボディソープとシャンプーの香りをふわりと漂わせた恋人は、いつもどおりにうれしそうな笑顔でこちらを迎えてくれる。
「スーパーでね、ガラガラやっててもらったの。お米とかお肉とかせめてティッシュがよかったんだけどさ、やっぱそううまくいかないよね?」
 なんでもないことを、それでもいやにうれしそうに報告する姿を前に、ひとまずはくしゃりと跳ねた髪をなぞりあげてやることで答えてやる。
「お風呂ね、まだあったかいよ。あと、明日の朝ごはんのパン帰りに買ってきたからね。いっしょ食べようね」
 矢継ぎ早に投げかけられる言葉にひとまずは相槌で答えてやりながらゆるませたネクタイに指をかければ、「あーっ」とおおげさな声が投げかけられる。
「なんかあった?」
 怪訝さを隠さない様子で答えれば、少しだけ不機嫌そうに、それでもほころんだ様子を隠さずに告げられるのはこんな一言だ。
「だって周スーツじゃん。すぐ脱いじゃうのもったいないし」
 物珍しくもない会社帰りのビジネススタイル一式を前に、しげしげと見回すように視線を投げかけながら忍は答える。
「いいなぁやっぱ、かっこいいなぁ。俺も行きゃ良かったなぁ」
「別にいいだろ、ていうか見飽きてんだろ」
 あきれた様子で答えるこちらを前に、かぶせるように掛けられる言葉はこうだ。
「外で見んのに意味があんじゃん。この人俺の彼氏だよ、かっこいいでしょって、ちょう自慢したいけど我慢すんの」
 いつも通りの子どもじみた口ぶりで告げられる言葉は、それでも隠しきれない情動じみたものを潜ませていて。
「てか周さ、それ脱ぐんなら俺が脱がせていい? もったいないじゃん」
 却下、とだけ答えて、ひとまずは風呂場へと逃げ込む。


 リビング兼居住空間からうっすらと聞こえるのは時間の都合も配慮してか、少しだけ音量を落とした賑々しいバラエティー番組の音声だ。
 待ってくれてんのか。寝とけって言ったのに。そもそも向こうだってそれなりに疲れているはずで、遅くなることだって伝えてあったのに、律儀というかなんというのか。
 ――相当変わっているのは確かだけれど(そもそも自分なんかとつきあっている時点で)確かにあれが周にとっては唯一無二の相手で、向こうだっておそらくはそう思ってくれている。世間一般の常識や価値観だなんて言われるものに捕らわれるつもりはあるはずもない。誰かに迷惑をかけている道理だなんて、ひとかけらもないのだから。
 それならなぜ、こんな風にいちいち立ち止まってはあれやこれやと行き場のない想いに絡め取られる必要があるのかといえば、それまでなのだけれど。

 泡のようにゆらめいては立ち上り、音も無く消えていく言い訳のひとつひとつを頭の中でかき消すようにしながら、ひとまずはふかぶかと大げさに息を吐き、どうにか気持ちを逃がすことに専念してみる。
 ほら、やっぱり『ふたり』でいるほうが、ひとりよりもずっと煩わしくってたまらない。それでも、それが手を離す理由になんてなりっこないことくらい、とっくの昔に思い知らされているのだけれど。



「なんかさぁ」
テーブルを挟んだまま、いつもそうするように、コーヒカップのふちをくるくると指先でなぞる仕草と共に忍は答える。
「こやってるとさぁ、やっと一週間終わったんだなって感じする。なんかね、こしてる時が最近いちばん落ち着く」
 得意げに笑いかけてくれる姿に、わずかに軋む心はたちまちゆるやかに溶かされてしまう。
 互いに学生の身分だった先月までとは違って、新入社員と大学院生とでは当然生活のペースも違う。ずっと少なくなった共にいられる時間をどうにか工面するうちに、こんな何気ないひとときの意味合いがお互いの中で着実に変わりつつあるのは、否応なしの事実で。
「……忍」
 無理をさせていないだろうか、不安にさせてはいないだろうか、本当は窮屈なんじゃないだろうか。不安はいつだってあふれるほどにあって、それでもすべてを打ち消すように笑ってくれるこの態度の前では、みるみるうちに泡のように溶かされて消えていってしまうのがなんだか自分でもおかしいほどで。
「おまえさぁ」
 箸休めがてらにと出した豆菓子をつまむ傍ら、周は尋ねる。
「連休にさ、どっか行きたいとことかある? ほら、もうすぐ誕生日じゃん」
「んー……」
 おおげさに首を傾げて見せる仕草ののち、告げられる答えはこうだ。
「別にいいよ、なんでも。周のこといっぱいひとりじめ出来んなら、それがいちばんいい」
「……おまえなぁ」
 いちいちかわいいこと言うんじゃねえよこの野郎。
 ひとまずは喉の奥でだけそう悪態を吐きながら、満面の得意げなほほえみからぎこちなく目を逸らしてみせる。いまはただ、それだけで精一杯で。
「しの――」
 ぎこちなく言葉を探すこちらを前に、いつもどおりのあの屈託なんてかけらもない笑顔と共に、心からの言葉が差し出される。
「だってほんとだもん。周はそうじゃないの?」
「……まぁ」
 投げやりに答えてやれば、テーブル越しに差し出された掌はなんの躊躇いもない様子で、くしゃり、と洗いざらしの髪をなぞりあげる。否応なしに心を溶かしていくこの掛け値なしのぬくもりの前では、言葉なんて無力なものに頼る必要もあるわけはなくって、そのことが、ただこんなにもうれしくって。

 なにがどうあれ、ひとまずこの気持ちには嘘なんてかけらもないということで、ここはひとつ。