世界が終わるまで待てない

 曇天の昼下がりは、世界の動きそのものが鈍く散漫になる。
 液状になった灰色のゼリーがとろとろと流れ落ちていく中に身を委ねているような、こんなけだるさと、行き場のない感覚は昔から好きだ。

 濡れた窓の外をぼんやりと眺めながら、傍らに感じるぬくもりと程良い重みに身を委ねるようにして、とろとろと瞼を閉じる。
 咀嚼しきることの出来ない行き場のない熱が、いまだに身体の芯でぐらぐらと揺らめいて、その中に一筋の光が降りてくる――そんなどこか曖昧でおぼろげなイメージがいつしか頭の中に浮かんでは、少しだけ重たくなった頭をぐらりと音も立てずに揺らしてくれる。
 このまま世界が終わればいいのに、なんて言い分は、身勝手だろうか。
 だって、これ以上ないほど満たされている。このけだるさも、静けさも、過不足ないほどに心地いいのに。
 何一つ足したくもないし、引かれたくもない。
 
 窓の外を叩きつける雨の音、自らの呼吸と心音、壁時計の秒針が刻む微かな音、傍らで眠る恋人の立てる微かな寝息。
 ――音楽なんていらない。このまま世界から、音なんてものが一切なくなったらいい。
 二人だけで閉じこめられたような感覚は、いつしかそんなにぶい耽溺の世界への誘惑をこちらへともたらす。

「んっ……」
 僅かに濡れた唇が(眠っているあいだにも、何度も繰り返しキスしたせいだ)くぐもった吐息を洩らす。
 半覚醒状態の、この輪郭がどこか曖昧な姿は、僕の前で見せてくれる無防備な姿の中でも一二を争うくらいに扇状的で、これから先何百回、何千回と目にしたって飽きるはずなんてあるわけないと、そう言い切れる。
 今すぐ押し倒して続きを始めたいそんな衝動をぐっと抑えて、ひとまずは少し寝癖の浮いたふわふわした形のよい頭をかき抱くように引き寄せ、髪に、額に、瞼に、それに、睫毛に、と、いつもそうする順番に、うすいくちづけを落として、触れたその先から、彼だけの形とそのありかを確かめるようにする。

「ねえ、いま何日? 何時?」
「先に言うことがあるんじゃないの?」
「いいから、こっちが聞いてることに答えろよ」
 不機嫌そうに尋ねる恋人の頬をぎゅうっと両手で包み込むように挟みながら、「18日の昼の15時だよ」と答えれば、「なぁんだ」と気の抜けた返事が返ってくる。
「なんか外、暗いし。すごい深く寝てたから、もっと何日も後になってるんじゃないかって思って」
「……そんなに寝かせるわけないでしょ、その前に病院に連れていくよ」
 答えながら、ろくにボタンもとめずに羽織っただけのシャツの隙間から手を入れて、素肌の上をすべらかに触れる。
「やだ、おまえの手つめたい」
「だからあたためてって言ってるんじゃない。寝起きの人ってあったかいよね、あかちゃんみたいですごくかわいい」
 薄い胸、わき腹、くびれた腰、あばら骨のいっぽんいっぽん――皮膚越しに伝う血液の流れとリズムを確かめるみたいに指先を滑らせていきながら、吐息を飲み込むみたいに唇を重ね合わせて、舌を絡めあうキスをする。
 口先だけではそっけない言葉ばっかりで、一年三百六十五日中、そのうち三百六十四日は不機嫌顔で居るくせに、決して僕のことを拒絶したりはしない、こんな不器用なあまえかたが最高に好きだ。彼のわがままを最後まで赦して愛せるのは世界中で僕ひとりだけならいいのに、なんて思うくらいには。

「ンぅッ……ふうっ――んッ」
 だんだんぐずぐずに、熱を入れた蜂蜜みたいな濃厚なあまさが吐息を伝い、体中に流れ出してとろとろとしなだれていく。こんな瞬間が最高に好きだ。
 何度も何度も、もっとうんといやらしいことだってそれこそあきれるくらいにしてるのに、キスだけでこんなにあまく痺れてくれる感じやすい身体と心の持ち主を、僕は最高に愛している。

「おまえのせいでこんな風になったんだ」

 いつかベッドの中で、シーツの上にしなだれさせた身体をびくびくと震わせながら告げられた言葉を、ふいに僕は思い出す。
 そんなの最高なほめ言葉だ。もっといやらしくなってもらわないと、その姿を僕だけのものにさせてくれないと。ぐらぐらと煮え立つような後ろ暗い官能の気配が背骨を伝って、あまりの幸福感にめまいがしそうになったあの感覚は、たぶん一生忘れない。
 あの時から僕の身体と心はきっと、幾重にもずしりと絡み付く重い鎖で彼の元に繋がれているのだ。

「……またするの?」
 期待と不安、その両方が入り混じった熱くくすぶった視線が僕を捕らえる。
 ああ、もうそんなに熱いんだね。熱の在処に手をのばそうとして、躊躇うようにその動きを止めながら、かすかにびく、と震えた背中に手を回す。
「しないよって言ったら?」
「……あんたは底意地が悪いな」
「君には勝てないよ」
 答えながら、ちゅっちゅっ、と音を立てて唇を吸い上げ、体重をかけないようにゆっくりと覆い被さる。

「セックスすると寝ちゃうじゃない、君」
「だっておまえがあんなに激しくするからだろ」
「手加減したんじゃ君も僕も気持ちよくなれない」
 答えながら、華奢な手首を引き寄せるみたいにぐっと掴んで、長くてしなやかな指の一本一本を口に含む。
「君の寝顔、かわいいけれどじっと見てたら寂しくなるんだよ。どうにも死姦の趣味はなかったみたいでね。だから寝かせない程度にいやらしいことがしたい、どうかな?」
「ど変態め」
「褒めてくれてありがとう」
 涼しげなつもりの口調で答えながら、ぐっと開かせた指のまた、そのひとつひとつまでを舌先でしゃぶるようにして舐める。
「君には水掻きがないんだね」
「……なにそれ」
 火照らせた顔を、それでも必死の抵抗とばかりに歪ませて不機嫌を張り付けた口調で尋ねる恋人を前に、僕は続ける。
「昔ね、海の近くの町に住んでいたんだ。その頃の僕は今よりもうんと身体が弱くて、そこに移住してきたのも、空気のよいところで療養すればいいだなんて両親の意向だったんだよ。晴れた日なんかは見渡す限り一面の青が広がって、空と海の境界が曖昧で……世界の輪郭が溶けてなくなるんじゃないかって景色がいつでも目の当たりに出来て、どこか空恐ろしかった」
 長い睫毛を音もなくしばたかせ、どこか不満げに瞳を曇らせる恋人を前に、僕は続ける。
「その町で、僕には同年代の友達が出来た。とは言ってもうんとちいさな田舎町でね。僕と同じ年頃の男の子なんて彼くらいしかいなくて、僕らが友達になることはいわば必然だった。身体が弱くて海になんて入れない僕と違って、彼は遠泳の選手を目指していて、毎日のように泳いでいた。全身浅黒く日焼けしているのに、指のまたの部分だけはいやになまめかしく真っ白でね。掌と足、その両方には僕とは違って、立派な水掻きがあった」
 答え終わった瞬間、微かに濡れたかのように見えるその瞳に、まざまざと不機嫌の色が灯る。
「……寝たの?」
「なんでそんなこと」
「だから、寝たんだろ?」
「寝なくたって、手や足の指くらい見る機会あるよ」
 答えながら、みずかきのない指のまたに、舌をぎゅうっときつく押しつけてちゅうちゅうと音を立てて吸う。
「嫉妬してくれたんだね、かわいい」
「別に……」
「いいじゃない、かわいいよ」
 じたばたと暴れる身体を、おさえつけるようにぎゅうっと抱きしめる。
 ああ、ほんとうにかわいい。
「人間って進化するんだなって、そう思ったんだよ。適応能力とでもいうのかな? 同じ人間のはずなのに、水の中と陸の上で、能力の違い故に身体にもその差が現れるだなんてびっくりした」
 彼の浅黒い健康的な肌も、張りのある筋肉に包まれた肢体も、指のあいだにあらわれた水掻きも――そのすべてが、うらやましかったのだ。
「うらやましいと思うのとほしいと思うのは別だよ。僕がほしいのは、かわいいと思うのは君の身体だ」
 答えながら、ゆるくうねったやわらかい髪の間に指を入れてゆっくりとかきまわす。
「ほしいからするの?」
「永遠に手に入らないけれどね」
 ため息混じりにそう答えれば、切なげに細めたまなざしにじっと見入られる。

 絶望的なまでに好きだなあと思うのは、たとえばこんな瞬間だった。
 世界の動きをすべて止めて、どこかこことは永遠に切り離された場所で僕だけを見て一生を終える――そんな絶望をラッピングしてプレゼント出来たらいいのに、なんて気の狂った欲望がなんどもなんども、僕の中で暴れ出す。
 自分の中にそんな狂おしいほどの熱が眠っているなんてことを気づかされたのは、彼が僕の人生に現れてからだ。

「起きながら夢を見てるみたいな感覚って、君にはわかる?」
「さぁ……」
 首を傾げる恋人の髪を指で掬い、何度も繰り返し、微かに触れるだけの淡いくちづけを落としながら僕は答える。
「君とこうしてると――たとえば夜中に目が覚めた瞬間だったり、こんな風に昼間でも光が閉ざされた灰色の世界に居られる時に、決まって僕は夢を見るよ。僕も君も、光が閉ざされた暗くて深い海の底にいるんだ。僕たちは誰の手も届かない場所で、たった二人だけで生き延びていけるように独自の進化をして、雌雄同体の奇妙な姿になっている。それでも僕たちはお互い以外の生命体を知らないし、深海には鏡なんてもの存在しないから、どうやら同じ種族であるらしいと認識しているお互いの存在をもってしかお互いの形がわからない。そうやってとろとろと与えられて生を生き延びて、いつしか干からびて、誰にも知られずにひっそり海に還っていくんだ」
どこかうっとりとした心地で答えるこちらを前に、すぐさま返ってくる、ふちを滲ませた儚い言葉はこうだ。
「……こわいよ」
「そう?」
 何でもないことのように(だってそうだ、僕にとってはごくあたりまえの日常なのだから)さらりと答えるこちらを前に、ふるふる、形のよい頭を震わせて告げられる言葉はこうだ。
「だって怖いよ。そんなの、あんまり幸せすぎる」

 まっすぐにこちらをまなざす瞳は微かに潤んでいて、きっと唇を寄せてみれば、海の味がする。

「幸せだって、君もそう思ってくれるんだね?」
 首筋に腕を回し、引き寄せるように抱きしめながら僕は尋ねる。
 こくこく、と頷いて答えてくれるその態度が心の底からいとおしい。
 これ以外なにもいらない。なにも過不足などなく満たされている。だから、怖い。その感覚を共有出来ているのだということはこの上なく幸福で、めまいがしそうになる。

「雨、このまま止まないといいのにね」
「困るだろ、そんなの」
「困ればいいんだよ。そしたらこのままずっと灰色の世界に居られて、世界中が海になるよね? そしたら僕たちの夢もきっと叶うよ」
「ばかか……」
「ばかなところを愛してくれてるんだよね?」
 答える代わりみたいに、呼吸を深く奪うキスがかぶせられてくる。



 光のいっさい届かない海の底で、永劫に漂い続ける深海魚の夢を僕はずっと見ている。
 寂しくなんてない、怖くなんてない。だって、僕の隣にはずっと、ろくに泳ぎもしないままふわふわと漂い続けているもう一匹の魚が離れずに居てくれるから。


 窓の外の世界は一面の灰色で、叩きつけるような凶暴な雨が永遠と降り続いている。
 世界の終わりを連想させるようなその景色は、僕たちを出口のない幻想へと誘ってくれる。


「ねえ、愛してる?」
「どうして聞くんだよ」
「言葉があるからじゃないの?」
「魚には言葉はないだろ?」
「じゃあいつか魚になるまえにちゃんと聞かせてよ。君、まだ人間の形だよ?」

 水掻きのない指を、僕はちゅうっと音を立てて吸い上げる。
 観念したかのように紡がれた「愛してる」の言葉は泡みたいにゆらゆら揺らめいて、頭の奥をぐらぐらと痺れさせ、魂ごと、僕のすべてをゆっくりと海の底に沈めていくかのような、そんな夢を見させてくれる。