ジェミニとほうき星

「なんで? つき合えばいいじゃん」
 開口一番に無責任に飛び出すのは、そんな無遠慮な一言だ。
「他人事だと思って」
 ソファ代わりに深く腰をおろしたベッドの上で、抱え込んだクッションをぽすぽすと殴りながら僕は答える。丈が長めのパーカーに杢グレーのスエットパンツの部屋着に着替えた僕とは対照的に、制服のスラックスにぶかぶかの紺のカーディガンを羽織った春馬は不満たっぷりのそんな返答をものともしないまま、にやりと涼しげに笑う。
「おまえだっていつだったか断ったって言ってただろ、同じだよ」
「その話、今する?」
「今しないでいつするんだよ?」
 気まずそうに目を反らすその姿を、僕は思いっきり横目にきつく睨んでやる。
あれは確か半年かそのくらい前、確かまだ夏服に袖を通していたそんな時期のことだ。バイト先でよく同じシフトになるという女の子が春馬に告白してきたというありふれた、それでも彼にとってはちょっとした一大事件を打ち明けられたその日の顛末を僕は今更のようにぼんやりと思い起こしてみたりなどする。
「だってさ、別にその子のこと嫌う要素は無いんだよ? 顔はぶっちゃけ好みとは違うけど結構かわいいし、見た目とかじゃなくて態度とか話し方とか仕草とか、そういうのもかわいいなーって思ったりはするし」
 かわいく見られようとしてるんだよ、おまえの前で。顔も見たこともないその女の子に、なぜだか同情したいような気持ちになる。
「じゃあつき合えば?」
「だから無理なんだってば!! てかおまえも知ってるじゃん? だから断ったんだってば!?」
 折角セットした髪をくしゃくしゃと乱しながら、心底困った顔をして親友は答える。
 要領を得ないなぁと思う。良くも悪くも素直で、思ったことから話すからこうなるんだ。まぁこういう所が彼の長所でありつき合いやすさのような物で、だから自然と人も集まるのだろうけれど。やれやれと思いながら、それでも仏心にも似たそんな気持ちを胸に、さりげなく助け船でも出すかのように僕は答える。
「じゃあさ、何でそんな後悔してるみたいな言い方すんの」
「……それは、その」
 懺悔でもしたいつもりなのか、息苦しそうに唇をゆがめたまま、春馬は答える。
「だってさぁ、俺のしてるのって結局責任逃れの言い訳じゃん。告白したわけでもないのに、『好きな子が居るから無理です。』って」
「だったらいい加減さっさと言えば?」
「だから違うの。そういうのは順番とかタイミングとか、他にもいろんなモンがあるわけ。大体ねえ、俺はカイと違ってモテるわけでも自分に自信があるわけでもないの!!」
 告白されたばっかりの色男がなにを言う。呆れと同時に不思議な穏やかさが胸にそっと込み上げてくるのを感じながら、丸めた背の向こうに覗く、子どもの頃からずっと変わらない焦げ茶の縁取りの丸い壁時計の秒針がせわしなく時を刻むその様をじろりと睨みつける。

 あれから幾ばくかの時間の経ったその後、その彼女とも元通りのバイト仲間の関係に戻って、片思いのその子と春馬の恋の方はと言えば無事に実を結んだというのだから、絵に描いたような大団円とは案外身近にあるらしいと僕は思う。ありふれたそんな顛末をそれでもどこか眩しく感じてしまうのは、それが僕にはきっとたどり着けないゴールだからだと分かっているからだ。
 如何にもばつが悪そうに俯いたまま、ぼそりと僕は呟く。
「……比べたくなくても比べることになるじゃん、絶対」
「まぁ、そうなるか」
どこか気まずいそんな空気に見舞われた所で、絶妙のタイミングで間を読んだみたいに、ガチャリと玄関が開く音がする。
「ただいまー。あれ、誰か来てるの?」
「おかえりー」
 傍らで、何でだか緊張でもしたかのように親友は僅かにその身を堅くする。
すたすたすた。小気味よいその足音が部屋の前で止まると、ガチャリとドアノブに手をかける音がする「あけていい?」いいよ、とそう返事をすれば、ドアの隙間から見慣れた焦げ茶のブレザーの制服姿が顔を覗かせる。
「あ、春馬くん」
人当たりの良い春馬を気に入っているらしい祈吏(いのり)は、そう言って少し嬉しそうに、よそ行きの顔をしてニコリと笑う。
「おじゃましてます」
「いいよ別に、気にしないでくつろいでね?」
 ぺこりと小さく頭を下げるその姿を前に、瞳を細めるようにして祈吏は笑う。その仕草につられて、カラーリングした少し赤みがかった茶色の髪が揺れる。胸のあたりまで伸ばした手入れの行き届いたその髪は少しうねりのある細くやわらかな猫毛で、指を通して掬い上げればはらはらと滑り落ちてしまうだろうことが容易に思い起こせて、それだけで僅かに胸の奥がざわめく。
「今からチサちゃんのとこに行くから、朝も言ったけど一応お母さんに伝えておいてね。帰りはたぶんねー、21時前」
「帰る前にメールしなよ。後、暗いから気をつけるように」
「だいじょぶだいじょぶ、うちまで送ってくれるっていうから。じゃあ、わたし着替えたらすぐ出るから」
 春馬くん、またゆっくり遊びに来てね。愛想笑いと共にそう言いながら、足早に通り過ぎて行くその足音と共に気配が遠ざかる。たまにしか見られない、少しよそ行きのあの笑顔。それが見られただけで、春馬を連れてきたその甲斐があるもんだ。
「…………」
なんだかいやに長く感じた沈黙のその後、遠慮がちに口を開きながら春馬は言う。
「……良かったの、ここで。祈吏ちゃん帰ってきたじゃん」
「別にいいよ、もう出かけるっていうんだし」
 壁に貼った、CDショップでもらった使い古しのポスター。どこかの海外のフェスで、熱狂する何万人もの観客の渦をものともしない様子でマイクを握りしめて熱唱するロックスターの写真をぼんやりと眺めるようにしながら、僕は答える。
「それに、誰か他の相手に聞かれた方がよっぽど面倒だ」
 たとえばほら、告白を断ったあの子の友達とか、そのまた友達とかね。苦笑いをする僕たちの時間を彩るバックグラウンドミュージックみたいに、明るいその「行ってきます」の声が響く。

 祈吏は僕の家族で、姉で(歳はおんなじだけれど)、一番身近な異性で、そして、僕が誰よりも大切に思っている女の子だ。
なんせ双子なのだからお母さんのお腹で育った時からずっと一緒で、僅かに祈吏の方が出てくるそのタイミングが早かったから姉だということになっているけれど姉だと思ったことなんて一度も無い。(何かにつけて「お姉ちゃんだから」と カッコつけるその姿は可愛いとは思うけれど。)
 双子だと言っても、僕たちは二卵性の男女として生まれてきたのでそっくり同じ顔をしているわけではない。アーモンド型の僕の瞳と違って祈吏の瞳は少し縦に幅が長くて黒目がちで僅かに目尻が垂れ気味だし、丸い鼻の先は僕の方が少し尖っている。横を向いた時のおでこと頬のラインは祈吏の方がほんの少しまあるくなだらかで、下唇が少し厚めで何も塗らなくてもほんのり赤いところは少しだけ似ている。
僕は男で、祈吏は女だ。これから骨格もどんどん成長して、体付きも変わって、背だってきっともっと伸びる。お互いにぐんぐん変わって、そうやって似ている所も薄れて、それぞれに全然違う大人の男と女になればいいと僕は思う。そうすれば、そっくり同じじゃなくてもどことなく僕と似ているその面影はもっと薄れていくはずだと、そう信じているからだ。
 血が繋がっていて、生まれてからずっと一緒で(途中、中一から中三までの二年くらいの間に離れたこともあったけれど)
そうやって隣り合った道を歩んだ相手を好きになることはごく自然な、当たり前のことで―寧ろ無関心だったり、心の底から忌々しく思うよりはずっと良いことだと思うのだけれど。どうやら世間の評価はそうでは無いらしいということには、成長するに連れて薄々感づいていた。だからこの気持ちを打ち明けた相手はたったの二人しか居ない、春馬は栄えあるそのうちの一人だ。
「ずっと一緒に居る相手のことって、そんなに好きになれるもん?」
「一緒に居るから好きになるんだよ」
 どこか遠慮がちに、それでも核心を突いてきたその台詞を前にきっぱりとそう答えたことは、記憶にまだ新しい。
 自分なりに迷って悩んで、気の迷いだとやり過ごそうとしたことも一度や二度ではなくって。距離を置くきっかけになるかもしれないと物理的に離れることも選んだし、その間に他に好きな相手だって出来た。それでもやっぱり心の根っこにあるその感情は薄れることも消えることも無いままだったのだから、それならとことん向き合おうとそう決めてから、もう随分経つ。
「つき合えばいいって言ったのはさ、別に軽い気持ちってわけじゃないよ」
窮屈そうに折り曲げた膝の上をなぞりながら、春馬は言う。
「前に言ってなかったっけ。向こうにいた時その、つき合ってる子がいたって」
「……まぁ」
 曖昧にそう答える僕を前に、春馬は続ける。
「その子とはつき合えたんでしょ? だったらって思わないの? その、祈吏ちゃんの代わりとかそういうのじゃなくて」
「そんなこと言われたって、あの時の下田さんの向こうには祈吏しか見えなかった」
「……重症だね、知ってるけど」
「春馬と一緒だ」
 どこか憮然とした思いを隠せないままそう呟きながら、ぽす、と力無くクッションを殴る。大体なんでこんな話してるんだ、こんな真面目なトーンで。窓の外からは近くの小学校が流しているらしい注意喚起放送が流れていて、あま苦いこんな気分を華麗にぶち壊してくれる。
 もうすぐ午後17時になります、外で遊んでいる子たちは必ず二人組以上になっておうちに帰りましょう。まだ子どもと言われた歳の頃は、よく祈吏と二人で家に帰ったことを今更のように僕は思い返す。祈吏と当たり前に手を繋いで歩いていたのは幾つまでだろうか。最後に手を握った時の感触は、生憎思い出せない。
「でもさー、そこまで言われるとやっぱ気になるよね。その、カイの元カノ。あれだっけ、今も時々やりとりしてるんでしょ?」
「……そうだけど。言ったじゃん、前にも」
「イングランドリーグとロックが好きでコーヒー淹れるのと鍋焦がすのが得意で、鯨のぬいぐるみと寝てるんだっけ? だからまぁ、そういうのじゃなくって」
 如何にも興味深げにこちらをのぞき込むそのまなざしに、やれやれと大げさなため息でも返してやりたくなる。(やらないけど)
多分春馬が聞きたいのは有名人の誰に似てるのかだとか、どんな体つきなのかとか、キスが上手いのかとか、恐らくはそういうことなのだろうと僕は思う。それでも、約1000km離れた場所に残してきた恋人がどんな相手だったのかなんてことをより具体的に伝えたくないのには、こちらにだってそれなりの理由があるのだ。気が乗らないその態度を隠すつもりもないままに、素知らぬ顔で僕は答える。
「じゃあ新情報、鯨の名前はビートルだよ」
「や、だからそういうことじゃなくてね?」
 尚もおどけた様子でそう切り出す彼を前に、わざとらしく顔をしかめるようにしながら僕は答える。
「だいたいさ、前にも言ったじゃん、その『元カノ』って言い方、好きじゃないって」
 そもそも、恋人が女の子だったなんていつ言った。


「ねー、この番組見てる?」
 ソファに背中を預けたままぼんやりと雑誌をめくる僕に、律儀に祈吏は尋ねる。
「別に、見たいのがあれば変えていいよ」
「ん、ありがと」
 答えながら、サイドテーブルにおいたチャンネルを手に取ると目当ての番組をつける。きらびやかなそのセットの中では、ホスト役のお笑い芸人に招かれるようにして祈吏が好きだと普段から散々口に出している俳優のその姿がさっと画面に現れる。
 主演映画公開間近、ただ今人気急上昇中の邦画界のエース。賑々しいそんな字幕と「本当にカッコいいですね!」なんてはやし立てる声に取り囲まれながら、仕立ての良いスーツに身を包んだ彼は無駄のない身のこなしで司会役の男たちに次々に挨拶を交わす。
肩から腰にかけてのなだらかなライン、適度に引き締まった体躯、少し面長気味の筋張った骨格に乗った皮膚、薄くて端が微かにめくれあがった唇。あまり芸能人に興味は無いけれど、セクシーだと素直にそう思う。画面を見張る祈吏のその横顔を盗み見れば、素直に嬉しそうに彼を見つめているのが手に取るように分かる。
 噂のイケメン俳優、○○の知られざる私生活とは! 仰々しい煽りと共に、フリップを持つ司会の男の手に力が入る。噂になった女優とのことをほのめかしたいのだろうと、そう思う。でもこれはTVショウの世界だ、どうせ綿密な打ち合わせの上でほんの少しだけ恋人のその存在をほのめかすようなことを言って、それで終わりだ。
(どうせなら、画面の前に居るだろう何万もの女性の期待を裏切るような爆弾を投下でもしてほしいところだけれど)
(その中の一人に、祈吏もいるわけだし)
 どこか意地悪なそんな気持ちを内側に潜めたまま、もしかすれば祈吏は彼に抱かれたいのだろうか、などと少し思う。まぁそんなこと、聞けるわけもないけれど。
 わざとらしい煽りに続く煽りで話を引っ張りながら、番組はいつの間にかCMに切り替わる。打って変わって画面に映し出されるのは、ショートパンツとタンクトップからすらりと伸びた手足を投げ出して清涼飲料水のボトルを手に駆け回る女の子だ。これ以上はもういい、戻ろう。黙ったまま立ち上がる僕に、テーブルで家計簿を付けていた母が声をかける。
「カイ、部屋に戻るなら洗濯物持っていってね」
「ん、わかった」
 少し生地が厚手なせいで一日で乾かなかった、きちんと折り畳まれたパーカーを僕は手に取る。胸に抱いたそれに少し鼻を近づけると、当然だけれど祈吏の服と同じ柔軟剤の香りが微かに漂う。
 バタン、と大げさに音を立ててドアを閉めて、しまうのも面倒な洋服をひとまず布団の端においたまま、ベッドに倒れ込む。TVの音と家族の話し声が少し遠く聞こえるこの静寂が今は心地良い。

 セクシャリティと、横文字でそう呼ばれるような何か。17にもなるのに、僕には正直言ってそれがよく分からない。その曖昧な感情は、時々僕の気持ちを濁らせたりもする。
 たとえばさっきのCMに出ていた女の子―瑞々しい笑顔も、適度にやわらかそうな体つきも、魅力的でとても可愛いと思う。その一方で、ホスト役の男たちに囲まれて愛想笑いをする俳優の男の、しなやかな筋肉が息づくことを想像させる背中のラインや少しごつごつしたその指先に何かセクシーな魅力を感じているのも確かだ。
 男を欲情させることを目的とした類の本に出てくるのはいつだって、華奢な骨格に乗った滑らかな曲線を描くライン、ひとたび指先で触れれば難なくその温もりに沈み込み、それにつれてとろけるような甘い声をあげるような、そんな女の子たちの肌を露わにしたその姿だ。ともすればグロテスクに思えるその肉と肉の混じり合いこそが男の(恐らく女の子にも)性的な欲求を喚起させるものとされているのだから、そういった物にあまり興味が持てない僕は少しおかしいのかもしれない。そんな小さな違和感に気づいたのは果たしていつだったろうか。具体的には思い出せないし、思い出したいとも思わない。
好きになった相手が好きだし、好きだと思うからこそ自然にもっと話がしたい、近づきたいと思う。体つき、声、仕草。構成する要素が魅力的であれば素直に良いとそう感じる、そこに体の性別がどうであるかは関係がない。ぼんやりと考えた結論はそうだ。

 祈吏が魅力的だから、自然に好きになった。そのことは普通のことで、ちっともおかしくなんてない。
 マーティンはとても魅力的だったから祈吏のことを好きなままでも、自然にその気持ちに答えたくなった。

 気持ちに矛盾なんてどこにもない。ごく自然な感情の発露だ。無理矢理に言い聞かせるようにするけれど、それでも割り切れない感情はしつこく渦を巻いて、煮えきらない心にさざ波を起こす。
 いっそただの性欲ならいいのにな、それなら若者らしいし。泡立つ気持ちを抑えるようにしながらゆっくり立ち上がり、CDプレイヤーの再生ボタンを押す。流れ出るノイズ混じりのギターが重なり合う音のおかげで、僅かに聞こえた祈吏の話声が、愛しい相手が笑う声がかき消されて、少しほっとする。


「女子の昔の体育着ってブルマだったって言うじゃん。あれさー、田舎の小学校とかだとまだ残ってるとこがあるらしいよ」
「まーじー。てかさ、やばくねソレ。別に俺ロリじゃないけど危険感じるわー」
「せーちゃん足フェチだしロリだもんねぇ」
「ばっかちげえよ、おっぱい星人のユウタにんなこと言われたくねえんですけど?」
「でもさぁ、ブルマってやっぱやばいよねー。寧ろなんであれが何十年も当たり前だったわけ? 俺、平気な顔で体育の授業受けれる気しねえもん」
 潜めているつもりで、その実周囲にはまる聞こえの賑々しいそんな話題に女子は露骨に眉を潜めながらわざと大きめのサイズを選んだジャージの前をぎゅっと掴み、男子はと言えば同族嫌悪なのか何なのか、どこか苦み走った曖昧な笑顔を浮かべながらひそひそ話に夢中になる。
 うるさいなぁ。それ、わざと女子に聞かせたくてしてんの? 冷めた気持ちをぼんやりと宙に浮かべたまま、次の時間の現代社会の小テストのことなど考えてみる。
 体育の授業は先週から続く幅跳びのテストで、出席番号順に並んで男女交代で測定を受ける。本番に強いのか、練習の時よりもうんと軽やかに飛んで記録を出す者、助走を付けすぎてつんのめって転ぶ者、派手に頭から転んで砂だらけになりながら、それでも陽気にピースなんてして見せる者、それぞれの個性が出て案外面白い。
「次、佐伯文子さん」
 何列か前の女の子は名前を呼ばれると澄んだ声で返事をして、すっくと立ち上がる。その動きに合わせて、高めの位置で結んだポニーテールが揺れる。
体育の時間になると髪の毛が邪魔になるからか、いつも髪をおろしている女の子たちはみんな、休み時間にこぞってお互いの髪を結い合う。シンプルにくくっただけの子もいれば凝った編み込みやまとめ髪にしている子なんかもいて、少しずつ雰囲気の違うスッキリしたヘアスタイルによって普段は隠された耳や首筋、うなじが露わになるその姿はなかなかに瞳を楽しませてくれる。
 待ちかまえる測定係のかけ声に、ゆっくりと助走を付けながら駆け出すその姿を見るとはなしにぼんやりと眺める。陸上部で普段から走っているだけあって、やっぱり走り方のフォルムがどことなく他の女子よりも綺麗だ。すとん、と勢いよく飛び上がり着地するその動きに合わせてポニーテールが生き物みたいにシュンと揺れるその姿も、見ていて中々に心地が良い物がある。
 パチパチパチ。まばらな拍手のその音に混じって、仲がいいらしい女の子たちからは口々に感嘆の声が聞こえる。
「ふみちゃんすごーい、きれーい」
「だいぶ飛んだよね? 新記録かも」
 佐伯文子さん、5m20cm。記録係の読み上げた数字に、ハーフパンツに飛び散った土をはらっていた佐伯さんは顔をくしゃくしゃにして得意げに笑う。
すごいねー、さっすがー。測定を終えた子たち、そうじゃない子たち、友達の輪に飛び込んでハイタッチをする姿は素直に眩しいし、可愛いとも思う。ほら、ちゃんと女の子だって魅力的だと思えるよ? そんな当たり前のことを思いながら視界の端でそっと、続く男子の少し重量感のあるそのジャンプと、しなやかなその筋肉がずっしりと土を踏みしめ、砂埃を巻き上げるその様をぼんやりと眺める。
「次、下田有香子さん」
「はいっ」
 聞き覚えのあるその名前と少し鼻にかかった甘い声に胸の奥がぐらつく。僕を好きだと言ってくれたその日から少しだけ特別になった、その女の子の名前だ。
告白された側と、それを断った側。元々すれ違いざまに挨拶を交わすくらいだった僕たちの関係がそのせいで大きく変わるなんてことは無いけれど、気まずく無い訳がない。
 とりあえずはあまり見ないようにしよう。そう意識したままくたびれたスニーカーによじ登ろうとする蟻の姿に瞳を細めるようにしながら、唇をほんの僅かに噛みしめる。僕の出番は、まだもう少し先だ。


「この子髪型変えたのね、かわいい」
「ほんとだ、良いなぁパーマ。うち、校則厳しいもんなぁ」
 ソファにもたれたまま肩を寄せあってテレビのバラエティを見る祈吏と母さんの姿をぼんやりと見ながら、スマートフォンの画面を眺める。この所少し肌寒くなってきたので、祈吏はミルク色の膝の上まですっぽり覆う長さのもこもこしたパーカーを部屋着にしていて、華奢な体がゆったりとした布地にくるまれたその姿はシロクマかあざらしの子どものようでとてもかわいい。
 帰り支度をしていた時、隣の席の女の子たちは好きな男の子の使っているシャンプーを特定したと、嬉しそうにはしゃいでいた。何でもドラッグストアの香り見本をひとつひとつ確かめては同じ物を探したらしく、恋する乙女の情熱というか執念というか、そういった物はすごいなぁと素直にそう思う。
そういえば家族だから当然、祈吏とはシャンプーもボディソープもみんな同じだけれど、そういうのはやっぱり嬉しいものなのだろうか。生まれてこの方当たり前すぎて、よくわからない。
 今はこうして同じ香りで居られるけれど、そのうちにどちらかが家を出ればそれも終わりだ。そう思うと確かに少し寂しいような気持ちはなくもないけれど、あまり先のことは考えたくないなぁと思う。今でさえもう手いっぱいなのだから。
 ぼんやりともやのかかったようなそんな気分に浸っていれば、その流れを追い払うように手にしたスマートフォンが振動を伝える。ああ、もうそんな時間か。寝ころんだ姿勢からすっと立ち上がり、くつろぐ母さんと祈吏の邪魔をしないようにするりとリビングを抜け出る。台所には、まだ微かに夕食のお浸しと煮物、それにお味噌汁の懐かしいような胸をすく匂いがふわりと漂う。
 そういえば今頃イギリスはお昼だっけ。ちゃんと食事はとっているのだろうか。手先は器用な癖に料理だけはテンでダメで、一人にしておけば何も塗らない食パンだとかリンゴだとかクラッカーだとか、そういったロクに血や肉になりそうにない物ばかりをボソボソと口にしていた薄いあの身体を思い出して、懐かしいような痛ましいような、そんな気持ちがふっと胸に浮かび上がる。
 はやるような気持ちになりながらドアを開けて、待機状態だったPCを立ち上げる。一応少しだけ乱れた髪を整えてからスカイプにサインインすれば、先に待機してくれていたらしいその姿が画面に映し出される。
『ハロー、カイ』
「ハロー、マーティン」
 ザラザラとした粒子の荒い画面の中でぶんぶんと両手を振るその姿を前に、僕も同じように手を振り返す。地球四分の一周先、ここよりも9時間前の世界はまだお昼過ぎで、赤みがかかったストロベリーブロンドが光に透けてきらきら光るその姿がよく見える。
「髪、伸ばしてるの?」
『ああ、忙しくて切りに行けなくて。だらしない?』
「よく似合ってるよ。カッコいい」
 ヘッドフォン越しに、ハハハと乾いた笑い声が耳をくすぐる。照れた時によくする、肩を竦めて首の後ろをさするようなその仕草も笑い方も、いつまでもちっとも変わらないそのことに、何よりもの安らぎを覚えている自分に気づく。