My Shooting Star.

「……どうしたの、カイ」
 オレンジジュースにそっと口をつけながら投げかけられる言葉を前に、たおやかに瞳を細めるようにしながら僕は答える。
「いや、なんていうか。幸せだなぁって思って」
「どうしたのいきなり、おじいさんになったみたいだよ?」
 クスクスと笑うその顔を見つめたまま、ドライフルーツとシリアルのたっぷり入ったヨーグルトをスプーンで掬う。すぐにしなしなのブヨブヨになるコーンフレークは苦手だったけれど、シリアルってなんでサクサクしたままなんだろう。マーティンに聞けば知ってる気もするけれど、どうせ聞いたって覚えられないだろうからいいかな、なんて思う。
「コーヒーと牛乳のストックが切れそうだよ。水はまだ大丈夫かな。あと、ハムはさっき使い切っちゃったみたい」
「スーパーまで後で行こうよ。確か、途中の公園でウィークエンドマーケットがやってるはずだよね?」
「こないだのおじいさん、また居るといいなぁ。犬がね、すっごく人懐っこくて可愛いんだよ。こげ茶でムクムクしててね、遠目で見るとぬいぐるみみたいにしか見えなくて」
 カイに見せたいなぁって思ってたんだよね、すっごく可愛い子だったから。
慈しむように瞳を細めるその姿に、こらえようのない愛おしさが胸のうちで膨らんでそっと滲んでいくのを僕は感じる。

 楽しいこと、嬉しいこと、新しく出会った素敵な物、目にした物。
離れていた間はネットの回線を通してしか分かち合えなかった物が、こうして共に過ごせば直接共有出来る。そのことは途方もなく嬉しくて、共通の思い出や経験が増えるにつれて、愛おしさはどんどん膨らむその一方だった。
 植物園に海に水族館、近くの公園にブックカフェ、新しく出来たパン屋。特別な場所も、何でもない日常の中で訪れる場所も、マーティンと二人でなら何だって掛け替えのない時間になる。
 お互いの部屋での、両親の居ない隙に目を盗んで過ごすひと時が殆どその全てだったあの時から僕たちの暮らしと愛のあり方は如実に変化していて、その日々がくれる喜びはまるで、掛け替えのない宝物のようだ。

 一緒に沢山の時間を過ごすようになって、お互い新たに知ったことは沢山ある。
 マーティンは僕とは違って寝起きが良くて、朝はいつも先に目を覚ます。
 料理はだいぶ得意になったけれど、卵を割るのはまだ少し苦手。
 顔を洗う時、鼻歌を歌うクセがある。(自作と既存のお気に入りの曲が半々ら しい、選曲は気紛れに変わる)
僕が恥ずかしがったり強がりを言ったりする姿を見るのが好きで、時々意地悪になる。(僕のことを意地悪だなんて言うけれど、マーティンだってそうだ)
 キスをする時、耳を触るのが好き。
 それから何より大切なこと。マーティンは僕のことが大好きで、僕だってマーティンが心から大好き。
 沢山の時間と苦しさを乗り越えたその先で手にした、狂おしい程の幸福な恋をしていた。

 録画したドラマを観て、それから少しだけ課題をして(その間のマーティンは持ち込んだノートPCで調べ物をしてくれていたようだった)、いい時間になったので簡単な食事をした後、きちんと着替えて約束通りに買い物に出ることにする。
 支度をしているあいだ玄関先で繋いでいた手は、ドアが閉まるのと同時にそっと離す。
「外にいる間は友達同士でいよう」
 少し残酷かとは思いながらも、これからの為に決めたルールがそれだった。
お互いの家族には全て打ち明けては居たけれど、学校ではまだ、同性愛者であることは隠し通そうと入学した時からずっと決めていた。恥ずかしいだとかみっともないだなんてことは勿論思っては居ない。無駄な波風を立てず、関わってくれる人たちを傷付けずに済む生き方が恐らくそうだと信じて、マーティンにも納得してもらったからだ。
 この土地には同じ大学から留学に来た数名の同期生が居る。もし彼らにマーティンと手を繋いだり親密にしている所を見られでもしたら、その後どうなってしまうかは分からない。
「玄関を出たら手は繋がない。よっぽど人がいない所だとか、暗くて全然見えない時は特例ね」
「顔を近づけて話すのも止めだね」
「キスは元々、人前でするのははしたないと思うけれど……玄関のドアを閉めるまで我慢しよう。出来るよね?」
「そんなこと言われたら玄関先で最後までしちゃいそうなんだけど」
「……君、大人になってから明らかに大胆になったよね」
 ちょん、と鼻を摘みながら答えれば「カイのせいじゃない」と笑いながら頬をつねられたのをよく覚えている。

 手を繋げないのは寂しいけれど、一緒に居られることの方が何より大事だから。
 手持ち無沙汰な掌をふらふらと泳がせたまま隣り合って歩く。薄曇りの空の下、街路樹の揺れる葉越しに水色と灰色を混ぜたみたいなのっぺりした空を見上げる。
「さっきはラッキーだったよね。あのジャケット、前から気になってたんだ」
 よく立ち寄る服屋でイレギュラーなセールに運良く巡り合ったマーティンは、ショップバッグ片手に鼻歌を口ずさみながら上機嫌の様子で歩く。
洋服屋にレコードショップ、本屋に公園(おじいさんは居なかったけれど、違う種類のとても可愛い犬には出会えた)、いつもの決まりきったような周回ルートを一巡りしてから、日用品を求めてスーパーを目指す。界隈でもとりわけ大きなこの店は利用者も多い為、近隣に住む顔見知りと会う可能性はとても多い。外で待ってようか? なんて言われたけれど、一人でする買い物は味気なくて寂しいので、結局毎回つき合って貰っている。
 生鮮食品を一通りに日用品、コーヒーはマーケットの出店で買ったので、隣のレーンの缶詰コーナーを覗く。
「このパスタの缶詰って、最近よくイギリス土産にって聞くよ。怖いもの見たさみたいな感じで」
「まー、日本人の考えるパスタとは別物だからね。うちではそんなに食べなかったけど」
 買うつもりもない缶詰を手に言葉を交わすそのうち、背後からそっと聞き覚えのある声がかかる。
「海吏くん」
「砂原(すなはら)さん」
 大学の同期生、同じく留学コースの特待生だった彼女は、ずっしり重そうなカゴを抱えたまま、トレードマークの赤い眼鏡の奥の瞳をそっと細めて微笑む。
「お話中ごめんね、さっきから遠目に見かけてそうかなーとは思ってて……」
 遠慮がちなその視線は、当然傍の彼の存在をちらちらと意識しているのが分かる。パチリ、と軽い目配せをしたのち、僕は言う。
「砂原祥子(すなはらしょうこ)さん、学校のクラスメート。彼はマーティン、こっちの友達」
「こんにちは」
 にこやかに微笑みながら差し出すその手を、どこか遠慮がちに砂原さんは握り返す。全く持って慣例通りのスムーズな挨拶。
「マーティンは日本語大丈夫だから」
「読み書きはだめだけれど、話すのはね。英語の方がいい?」
「いえ、どちらでも」
少し強張った、それでもたおやかな柔らかさを感じさせる笑顔を前に、ブルーグレイのその瞳が微かに揺らぎながらそっと細められる。この笑顔を僕はよく知っている。『僕の友達』でいる時のマーティンの笑い方だ。
「今晩はパスタ? タイムリーだね。ちょうどその話をしてた」
 黒オリーブ、乾麺、マッシュルーム、ベーコン。カゴの中身をそっと覗きながらマーティンは言う。
「これは通好みだから日本人向けじゃ無いけれど……」
 パスタ缶の横、トマトの水煮へと視線を移しながら彼は続ける。
「トマトは酸味の強いのと少し甘め、どちらが好き? こっちのメーカーは少し酸っぱいけれど、好みだからね」
「あまり酸っぱくない方が……」
「そう、じゃあこれかな。値段はどっちもあまり変わらない」
差し出された缶を、ありがとう、とすっと彼女は受けとる。
「ごめんね、余計なお世話で」
「ああ、いいの。わざわざありがとう」
 おだやかに首を横に振るその仕草に連れて、顎のあたりで切り揃えられた髪がはらりと音も立てずに揺れる。
「じゃあ、また学校で」
「うん、また来週」
 どこにでもある、ほんの一瞬の些細な日常。ほんの少しだけ後ろめたいのは、多分きっと気のせい。
「……やっぱり外に居た方が良かった?」
うんと小さく影が遠ざかったのを確認したその後、どこかいじけたみたいにシャツの裾を引っ張りながらマーティンは尋ねる。
「別にいいでしょ、そしたら彼女のパスタソースが酸っぱくなってたし」
 いいことしたじゃない、ね? 機嫌を取るように答えれば、子どもみたいに口の端をキュッとあげて微かに微笑む、よそ行きじゃない『僕の恋人』のマーティンの笑顔が広がる。こういう時、手を握れないのは少し不便かな。まぁいいか、恋には少しくらい障害があった方が燃え上がるだなんて、昔祈吏の部屋で読んだ少女漫画にも書いてあったし。
 ぼんやりとそんな思案に明け暮れながら、手にした買い物カゴのハンドルをぎゅっと握る手に力を込める。