微かに霞んだ視界を、それでも必死に見開くようにしながら、古びた木製の扉を俺はそっと睨みつけるようにする。
ガチャリ。軋んだ音を響かせゆっくりと押し開かれた扉の隙間からまず見えたのは、想像したのよりもうんと小さなその影と、腰まで伸びたふわふわとした長い淡い金色の髪だ。

「……」

息を飲むようにしながら立ち尽くすその小さな影を前に、俺はただ曖昧に苦笑いをこぼして見せる。それでも、その精一杯のサービスを前にしても、その少女の瞳からは、怯えたような冷たく震えたその色は消え去りなどしない。
その途端、さすがに尽きたかと思った悪運がまだ残っていた事を俺は確信する。子どもを、それも物心のついた年の少女を始末するだなんて、一番気の乗らない仕事だというのに。
「……よぉ」
振り絞るようにそう声をあげる。が、発した声が余りに頼りなくかすれていた事に、思わず苦笑いを浮かべたくなる。
その場に立ち尽くしたままの少女は、怯えたような瞳をして、大きな瞳を縁取る長い睫毛をふるふるとふるわせるようにしばたかせる。確かに、保護者の留守中に無様に血を流した不法侵入者に出くわすだなんて状況に陥れば、例えスラム育ちだと言ってもそうなるのもおかしくはない。桜色の小さな唇が震えたまま言葉を発しようともしないのは、恐怖心のなせる技なのだろうか。
「……すまねえな。人が住んでるとは思わなかったんだぞ、と」
答えながら、ひとまずは痺れの残る両手をゆっくりと上げて戦意喪失のポーズを気取って見せる。せめてもの警戒心を和らげようと笑顔を作ってみせたつもりになるが、鈍い痛みのせいで顔の筋肉もひきつっているのか、うまく笑えているのかなんて分かりそうにもない。
「……」
微かに震えたまま、娘はそっとこちらへと歩み寄る。年の頃はあの古代種の少女と初めて接触した頃と同じくらいに見える。ほとんど白に近い薄い金色の髪に、少し灰色がかった紫の瞳がよく映える。この界隈では珍しい組み合わせだが移民の子か、はたまた混血児だろうか。その筋の店に連れていけば良い値段がつきそうだ、と無意識にそう値踏みをしていた事に気づき、自らの職業病のような物にほとほと呆れるのを感じる。
不安そうに揺れるまなざしをそっと覗き込むようにしながら、俺は問いかける。
「なぁ、嬢ちゃん……見ての通り、動けねえんだ。少しだけ、ここに匿っててくんねえか?」
「……」
少女の瞳が、戸惑いの色に揺れたままこちらを捕らえる。長いワンピースの裾を揺らしながら近づくその姿は、死の間際にだけ現れるという天からの使いのようにも思える。
「ウッ……」
ズキリ、と突き刺すような鈍い痛みと共に、額を生ぬるい脂汗が伝い落ちる。こちらのその異変に気づいた途端、少女はその場にそっとしゃがみこみ、汗ばんだ額へおそるおそるとちいさなその手のひらを伸ばす。その間も、微かに震えたその唇からは、言葉は発せられないままだ。
「……?」
痛いか、と幼い子どもに問いかける母親のように、どこか慈愛に満ちたまなざしを向けながら、小さな手のひらがそっと髪をなでる。どこか懐かしいようなその感触にそっと酔いしれるようにしながら、ゆっくりと遠慮がちに俺は尋ねる。
「なぁ、よかったらなんだが……水、くれねえか?」
促すようにそっと、台所へと視線をやる。
少女は黙ったまま、形のよいその頭をこくりと小さく縦に振ると、こちらの想像とは裏腹に、するりと背を向けると、奥の部屋へと姿を消す。
「……おい」
引き留めようにも、喉の奥に異物が詰まったように声が掠れて、うめき声のような声しか上げられそうにはない。どこかに助けでも呼びに行ったつもりだろうか。全く、それならそれで躊躇うことなく始末しておくべきだったのかもしれない。
肩で息を吐くようにしながら、こわごわと銃をしまったそのはずの胸元に手を延ばそうとしたその瞬間。ガチャリと扉が開き、手にした籠いっぱいの荷物を抱えたその少女が、単身ふらりと姿を現す。
包帯やタオル類といった、恐らく応急処置の為に用意してくれたのであろう荷物の入った籠を片手に、少女はゆったりとした足取りでこちらへと近づく。その動きに合わせるようにふわふわと揺れる薄い水色の綿のワンピースの裾をぼんやりと見つめていると、小さなその足は、無様に転がり落ちたロッドの前でふと動きを止める。
「悪いな、置いといてくれるか」
こくり、と小さく頷くと、少女は机の上へと、手にしていた籠と共に、拾い上げたロッドをそっと置く。そしてそのままゆっくりとこちらの前でしゃがみ込むと、コップに並々と注いだ水の入ったグラスと共に、痛み止めらしき錠剤をそっと差し出す。
「飲めって?」
「……」
どこか圧力にも感じられるその眼差しに促されるようにしながらよく冷えたその水と共に、手渡された錠剤を一気に流し込む。喉を滑りおちていく水がからからの身体にゆっくりと染みていくのを感じるその時、ようやく酷く喉が渇いていた事に気づく。
「これさ……なんか、ヤバい薬じゃねえよな」
冗談のつもりで発した言葉を前に、少女は僅かに顔をしかめる。異変に気づき、頭でも撫でてやろうと思ったが、あいにく両手のひらが血にまみれているせいでそれすらもままならない。こちらのそんな躊躇いなど気にも止めない様子で、少女はその小さな指で丁寧にシャツのボタンを外すと、露わにされた傷口にそっと、清潔なタオルをあてがう。
手慣れた物だ、と思う。スラムに育てばこと暴漢の相手だけでは無く、急に現れた手負いの傷を背負った元暴漢の世話すらも上手くこなせるようになるのだろうか。
すっかり血にまみれてしまった小さなその手のひらが、器用にきゅっと包帯の先を結ぶ。一連のその仕草をぼんやりと眺めながら、早くも痛み止めが効いてきたのか、少しずつぼんやりとした頭の中のもやが晴れていくのを俺は感じる。
「あんたさぁ」
揺れるまなざしをじっと見つめるようにしながら、俺は尋ねる。
「……もしかして、喋れねえのか?」
図星をついたのか、桜色の小さな唇が微かに震える。声を上げないのはどうやらそのせいだったらしい。何の気なしに尋ねたそのつもりだったのに、瞳の色を曇らせたまま俯くその表情を前にすれば、途端に後悔の念のような物に襲われるのを感じる。
躊躇いながら、それでも伸ばす事は出来ない血にまみれた手のひらをぎゅっときつく握りしめ、ぎこちなく笑いかけるようにしながら俺は続ける。
「そうじゃねえんだ。折角世話になったんだから名前くらい聞いておきたいと思っただけなんだぞ、と。いつまでもアンタじゃ、幾ら何でも味気ねえだろ?」
「……」
問いかけを前に、少女はこくり、と小さく相づちを打つかのように頷きながら、こちらの手をそっと取り、残されたもう片方の手のひらをそっと開くジェスチャーを見せる。
「手、広げろって?」
こくり、と小さく頷く。その仕草に導かれるように、躊躇いながら血にまみれた手のひらを広げると、少女はその華奢な指の先でそっと、一文字一文字言葉をなぞる。
T・E・R・E・S・A
どうやらそれが、彼女の名前らしい。
「テレサ、か。良い名前だな、よく似合ってる」
答えた途端、俯いたまま照れくさそうに微笑むその笑顔には、年相応の幼さが滲む。邪気の無いその微笑みを、俺は素直に心地よく感じる。
未だ微かにくすぐったく感じるようなその手をぐったりと床の上へと置こうとしたその途端、せがむように、ところどころが血に染まった小さな手のひらがそっとこちらへと差し伸ばされる。
「俺も、か」
こくり、と小さく頷く。その仕草にほだされるようにしながら、少女がしたのと同じように、手のひらの上をそっと、指先でなぞるようにしながらスペルを綴る。
R・E・N・O
レ・ノ
小さな唇は、音を発さないままゆっくりとその形に動く。一連のその仕草を見ていれば、何故か不思議に胸の奥がざわりと揺らめくかのような錯覚に襲われるのを感じる。
誰かに名前を呼ばれる事でこんな感覚を覚えるだなんて、思えば初めてかもしれない。確かなのは、ゆっくりと胸の奥で何かが満ちていくかのようなこの感覚が、決して不快では無いという事だ。

振り返って見ればそれが、俺と天使とのファーストコンタクトでの一部始終だ。