ハッピーバスデー

犬や猫だって、自分が産んだ子どもくらいまともに育てようとするそのはずなのに。それでも、この肉体は名前を捨てて新しい人生を手にするまでも、その後も、幾度も半死半生の危機を乗り越えてはのうのうと生きながらえているのだから、人間とは案外丈夫に出来ているものらしい。
 今更のように、そんな感慨をありありと思い返す。
 頼みもしないのに産み捨ててそれで終わり。誕生日を祝われたことどころか、ろくに名前を呼ばれた覚えすらない。だからといって、殊更に憎む気などあるわけもない。ただの製造元、それ以上でもそれ以下でもない相手に感情のリソースを裂くような酔狂な真似など、する筈もなかった。
 それにしたって、いったいどんな皮肉だ。一身に愛され、望まれて生まれてきたはずの子どもはあっさりと死んでしまったというのに、誰にも求められていなかったはずの自分はまだ、この地を這うような暗闇に落とされた人生の道筋を、それでも降りることを未だ赦されてなどいないのだから。


「だって、名前なんてただの記号に過ぎないじゃない」
 そう答えながら涼しげに笑った女の姿が、なぜだか今更のように脳裏によぎる。
 少年のように薄っぺらい身体、枯れ枝のように頼りなく華奢で、筋肉を感じさせない白くなまめかしい手足、微かに潤んだように見えた、長い睫毛に縁取られた切れ長の揺らいだまなざし。
 鼓膜に、腕の中に、記憶の断片のその一つ一つに。確かに共に過ごしたその時間が刻まれているその筈なのに、あまりにも儚く朧気で、いくら思い返そうとしても幻のようにしかその姿を思い起こすことが出来ない。
 かわした言葉、投げかけられた視線、いつもどこか虚ろなその色を隠しきれなかった「愛している」と投げかけ合った言葉のひとつひとつ。
確かにこの身をすり抜けていったそのはずなのに、掌に残った体温はとっくに冷めきって朧気なその感触すらもう早思い起こせない。それなのに交わした言葉の破片は未だ胸の奥に微かに突き刺さったままなのだから、おかしなものだ。

「なぁ、名前は?」
 そう尋ねた時に返された言葉だって、一言一句違わず覚えている。
「あなたがつけてくれないかしら?」
 すべてをどこかで無くしてしまったのだと、女はそう答えた。与えられるものなど何も持たない俺がせいぜい差し出すことが出来たのはささやかな寝床と、つなぎ止める為だけのかりそめの言葉、ただそれだけで。
 すべてを捨て去ってきたのだという女に新たな名前を授けることなど出来るそのはずもなければ、『本当の名前』を知らされることはついぞないままだった。
 ああ、あれはもしかすれば、つかの間の寝床を提供したその恩に預かって身体を差し出すことくらいは赦しても、心を差し出すことはいつまでもないという不器用な意思表明のつもりだったのだろうか。
 そんなこと、今更気づいたってどうしようもないのに。

「ねえ、レノ」
 すこし掠れた、くすぶった熱を潜ませたようなあまやかなあの声で名前を呼ばれるのが好きだった。
 指の間からすり抜けるやわらかな髪の感触よりも、薄い皮膚を伝う体温を重ね合い、血の通い合う鼓動を直接確かめ合うその行為よりも、もしかすれば。

「愛してるわ、レノ」

 上目遣いに、潤んだまなざしを傾けながら乞うようにそう尋ねられる、その瞬間が好きだった。
 玩具をねだる子どものような無邪気さと、裏腹な瞳の奥のその熱さ。ぐらりと、蝋が溶けるようにちりちりと感情が揺らされるのを感じながら、観念したように俺は答えるのだ。

「ああ、愛してる」

 それなのに、ついぞ名前を呼んだことはないままだった。
 願いを込められた美しいその名前を、生まれて初めて手にした宝物を、彼女もまた持っていたのかもしれないのに。


「……ぱい、レノ先輩! いい加減起きてください。ここで寝ないでくださいって言いましたよね? これ、一応来客用なんですからね」
 アイマスク代わりにひっかけた古新聞を乱雑にめくったその先から、見慣れたあのしかめっ面が飛び込んでくる。
 いいけど、罵倒のバリエーションが狭いのは気にならないのだろうか。それ、前にも全く同じこと言ってたぞ。
 ふぁあ、と寝ぼけ眼をこすりながら大げさなあくびなどパフォーマンスがてらにこぼしてみれば、いやに大仰なしかめっ面に刻まれた眉間の皺はますます深まる一方だ。
 いいけどさ、あんまりその顔ばっかしてたら定着すんぞ。顔面だけ先取りでババア一直線なんて、マニアックな方向に需要伸ばしてどうすんだ、と。
ひとたび口に出せば罵詈雑言のオンパレードが返ってきそうな言葉ばかり浮かぶけれど、寝起きのせいかいやに喉が乾いて張り付いているせいで、言葉を紡ぐ気力もないのでとりあえずはそのままにしておけば、いつもと変わりない苦言のオンパレードが壊れたスピーカーのごとく虚しく鳴らされるまま、この身をすり抜けていく。
「……いいけど、なんか用でもあって起こしにきたんじゃねえの?」
 ないならいいんだけどな。床に落とされた新聞を拾い上げようと軋む身体をゆっくりと起こしたところで、「あー!」と大げさな声が返ってくる。
「忘れてました、先輩のせいです」
 ……おまえのせいだろ、どう考えたって。そう思うが、面倒なので口には出さない。ついてくるように、と促されるまま女の後を追えば、入館申請書と題された入力途中のままのフォーマットを開いた画面をぐい、と顎で示される。
「今度行かされることになってる施設、セキュリティチェックが厳しくて事前に審査が降りないと入館許可が降りないんですよ。社員番号は控えがあったんで大丈夫でしたけど、生年月日まではさすがに把握してないんでさっさと入力してもらおうと思いまして」
 あと、メールアドレスと携帯電話の番号も必要みたいなんで。
 ぶつぶつと口うるさい言葉に促されるようにしながら、フォーマットに記載された個人情報を入力する。そこに打ち込む名前は勿論、生まれたその時に名付けられたそれとは別物の、とうに見慣れたそちらの方だ。
 当然のことだ。ぬかるみを這うように生きていたかつての子どもは、とうの昔に死んだのだから。
「これさー、バカ正直に入力してたら『おめでとうございます、あなたに三億ギルを振り込みたいので今すぐ口座番号をお送り下さい』って迷惑メールがじゃんじゃんきたりするようになんじゃねえの?」
「そんなちんけな商売してるわけないじゃないですか……」
 女の背に合わせたいやに低い椅子で、背を丸めるようにしながらパチパチとタッチタイピングの音を響かせる。それにしたって低すぎんじゃね、腰痛になんだろこれ。
 ぶつくさと頭の中だけで悪態をついて入れば、順に入力したその先で生年月日の記入欄へと行き当たる。
「これさー、いちいちいんの? 誕生日おめでとうのDMでも送ってくれるとかそーいうオチ?」
「個人情報の基本ですからね、まぁ」
「誕生日当日にいきゃサービスでもあるってんなら来客も増えんじゃねえの?」
 IDの番号確認の為に取り出した社員証を睨み付けるようにしながらそこに記載された生年月日を書き写していれば、横からどこか怪訝そうな表情がそっとこちらをのぞき込んでいるのに気づく。
「なに、レノ先輩の男前な横顔にそんなに見とれてますか?」
「……そうじゃなくて」
 からかいの言葉に、いちいち律儀にむきになったようなそぶりを見せながら女は答える。
「誕生日って普通覚えてるモンじゃないですか。いちいち確認してるの、何でだろうって」
「……あぁ」
 ぱちぱちぱち。
 無感情に数字を打ち込んだところで、にやりと笑いながら俺は答える。
「覚えようとしてんな必死な顔でのぞき込んでんだと思ったんだけどな。照れ隠し?」
「噛み合ってないんですけど」
 わざとらしく不機嫌そうに顔をしかめるその態度を前に、鼻であしらうようにふっと笑いながら俺は答える。
「んなモンにいちいち捕らわれてるほど暇じゃねえだけだぞ、と。いつ生まれたかなんてことより、いつ死ぬかの方がよっぽど一大事だ」
「理由になってないんですけど」
 いいからいいから、鼻であしらうようにしながら空欄を順に埋め、念の為、入力ミスがないか画面をスクロールしながらざっと確認してみる。その中で勿論、この後輩のフルネームと生年月日も目に入る羽目になる。
 記載された日付は半年以上は先。偶然今月中、程近い日程だったこちらとは大違いだ。そんな先だなんて、この後輩はともかくとして、自分なら生きているかすら定かではない。(意外とこの器は丈夫に出来ているようだから、恐らく十中八九は生きながらえてしまっているのだろうけれど)

「イリーナ」
 機械的にただ、そう名前を読み上げて見せる。
「はい」
 途端に返ってくる律儀なその返事を前に、思わず苦笑いでも漏らしたくなるのをぐっと抑える。
「いや、いい名前だなって思って」
「……なんなんですか一体、いきなり」
 ぶつくさと文句をいいながら、その表情が歪む。それでも、いびつなその奥に、隠しきれない微かなぬくもりが潜んでいることを、モニターに映し出された不鮮明なその姿でも如実に受け止めることが出来る。

 イリーナ

 とりわけ意識をしたことは無いけれど、相応しい、美しい名前のように、今なら素直にそう思えた。
 きっと幾度と無く愛おしむようにその名を呼ばれ、生まれてきたそのことを祝福されてきたのだろう。
 何の違和感も無くその名前や生まれた落ちた日を記すことが出来るのも、こんな風にくるくると表情を変えて、感情の赴くままに振る舞えるのも―きっと、自らの生が望まれて生まれてきた物だと疑う余地などなかったそのはずだからだと、そう決めつけてしまうのはただのやっかみに過ぎないのかもしれないけれど。
「いいからどいてくれませんか。仕事、まだ残ってるんで」
 野良犬でもあしらうかのような無遠慮なその態度を前に、窮屈に折り曲げた背をゆっくりと伸ばしながらその場を立ち上がる。それならば、仰せのままに。定位置に戻ろうと進路を取ったところで、背中越しにぴしゃりと、あのお小言が被さる。
「先輩の席はそっちじゃないですよね! まだ期限間近のデータ作成が大量に残ってるの、まさか忘れたなんて言わせませんよ?」
「ハイハイハイっ、と」
「ハイは一回!」
 いいからさ、そのヒステリーババアみたいな小言どうにかなんねえの? このタイミングでツォンさんが帰ってきたらどうせいつものあのうわずったぶりっこ猫撫で声に戻んだろ? 声帯の無駄遣いだろうからどっちかに統一したらいいんじゃねえの?
 相変わらず脳内では売り言葉に買い言葉のオンパレードが繰り広げられるが、こちらの声帯の無駄遣いになるだけなのはわかりきっているので勿論わざわざ口には出さない。いつものように渋々と席について、スリープの状態の端末を立ち上げれば、暗転したままだった画面は一転して何百行と続く未処理のデータフォーマットに移り変わる。
 ああ、そういえばそうこうしてるうちに、いつの間にか古傷のように疼いた、帰らないあのつかの間の日々への感傷が追いやられている。
取り戻せない過去に縋ったって、行き場をより失うだけだ。計らずとも気を紛らわせてくれた口うるさい後輩に少しでも感謝の意を表明してやるべきなのだろうか。
端末と書類の山のその隙間からせめて顔色だけでも伺ってやろうかなどと思うが、僅かな隙間から顔を覗かせるのは俯いたままさらさらと揺れるいかにもやわらかそうな金の髪くらいで、その下に覆い隠された表情の色までが読みとれるわけもない。

 ……そういえば、この後輩の誕生日は正確にはいつだったろう。覚えておいてやれば、もしかしたら祝ってやれたかもしれないのに。(ただし、その時まで生きていれば、の話)