その時の事は、今でもはっきりと覚えていた。
手に感じたずっしりとした重み、浴びせられた生ぬるい感触、血と脂の混じった生臭い特有の臭い、急速に体温を失っていくずっしりと重い、ぬけがらとなった肉の塊の無様なその姿。そして何より、その魂の入れ物であったはずの物体から生命を切り離したのが他でもない自分自身であったという事実が、予想を遙かに越えた現実を自らに突きつけてきたのは確かなのだ。
ガチャガチャ、という無機質な音。「入るぞ、と」という無骨なその言葉と同時に、開け放たれたドアの隙間からは新鮮な外の空気が入り込んでくる。
生ぬるく滞留したような淀んだ部屋の中に流れ込んできたそれが頬をなでる感触はいやに冷たく、行き場を失った熱に支配されていたような火照った体にいやに心地よかった事を今でもぼんやり覚えているくらいだ。
「れのせんぱい……?」
姿を確かめる気力もないままぼんやりと床を見つめながら、ドタドタと無遠慮なその足音と声だけで判断した訪問者のその名前を口に出してみる。そのつもりが、喉が酷く渇いて張り付いて、声すらも上手く出ない。ろくに櫛も通していないぼさぼさの前髪の隙間からはうっすらと赤い影が見えるが、霞んだ瞳が上手くピントを結んでくれないせいで、それが本物のその人なのか、瞼の奥に残された残像なのかもよくわからない。
「主任が心配してたぞ、と。それにルードも。仮にもタークスの一員がそんなていたらくでどうすんだ、と」
話しながら、コンビニの袋がドサリと音を立てて床に投げ落とされる。水に携帯食品、栄養ドリンクにいくつかのサプリメント。見覚えのある色や文字列が、イヤにチカチカと目に痛い。
手を伸ばそうにもろくに動けず、タオルケットをきつく巻き付けて座り込んだ私の前にしゃがみこみ、すっかりやつれたその顔をのぞき込むようにしながらレノは呟く。
「……ひでえ顔だぞ、と」
「生まれつき、です」
「そういう意味じゃなくて」
答えながら、手にしたペットボトルのキャップを開け、無理矢理私の唇へと押しつける。突如流れ込んできた冷たいその感触に、体はどう反応すればいいのか思い出せない、とでも言いたげに、口の端からはたらたらと無様に水が滴り落ちる。
「えほっ、ゲホッ、ゴホっ……」
無遠慮に水を吐きながらむせる私を前に呆れたかのような顔をしながら、それでも、離れようとはしないままレノは尋ねる。
「お前さ、その様子じゃロクに喰ってねえだろ?」
「食べたいん……ですけど、体が、受け付けないみたい、で」
湿った唇をこじあけるように、レノの冷たいその指先が押し開く。そしてそのままそこには、ボトルの中に残された水が無理矢理に流し込まれる。
「ンッ、ンッ……ウッ」
「いいからゆっくり飲め。このまま干からびてえのか? そうじゃねえだろ?」
導かれるように、ゆっくりと喉を鳴らしながら滑り落ちていくその感触に身を任せる。からからに張り付いた体中にゆっくり染み渡っていく新鮮なその感覚は、否応なしに心地よさに溢れている。
「ゲホッ、ゴホっ、ゴホっ……」
咳払いをする私の額に張り付いたその髪を指の先でそっと払うようにしながら、男はいつになく優しい口ぶりでこう尋ねる。
「オマエ、あいつの代わりに死ぬ気あんの?」
「…………」
答えられない私を前に、尚も問い詰めるような冷ややかなその眼差しを手向けながら、男は続ける。
「死にたいなら今すぐ舌でも噛むなりなんなりして死ね。死体の始末ぐらいはしてやる。その勇気も無いなら生きろ。まだこんなの、ほんの序の口に過ぎない。このくらいで潰れるくらいならここで死ぬか、それでも生きるか、どっちがいいか選ぶんだ」
「せん……ぱい……」
息を呑んだまま私は、男の瞳をじっと見つめる。今までに訓練の為についた教官達とも、神羅の上役達とも、主任とも……勿論、自分が殺めたターゲットの一人とも、その誰とも違う。何かを手放し、そこでしか生きていけない事への覚悟を決めた者だけが持つ鋭くも強い光が、そこには宿っていた。
それは確かに、かけがえのないものを幾つも踏みにじり、それでもその犠牲の上に立つ事を心に決めた者だけが持つ鈍くもまばゆい程の輝きそのものだ。
「オマエさ。まだ、死ぬのが怖いとか思ってる?」
「……わかりません」
何かが壊れるみたいに、人は唐突に死ぬのだという事。不慮の事故や病などではなく、同じ魂を持つ人間の力でそれを成し遂げてしまえるのだという事。訓練の場では決して知らされる事などなかったその事実を前に、私の体は生きる事を拒否するかのように怯えていた。それがどれだけな無意味な事なのか、身を以てわかっていてもだ。
レノの肩越しに、揺れるカーテンの隙間からそっと外の世界が見える。あの窓枠越しの世界は、あの日から少しも変わってなど居ない。たとえ一人分の魂がこの地上から消滅しても――それが人ならざる物の見えない意思だとしても、人為的な仕業なのだとしても、この世界は何一つ変わらない。その証が目に見えているようだ、と私は思う。
そしてこの光景は、いつの日か私の魂がこの世界から消えたとしても、変わらないものなのだろう。

目の前に居るこの人に縋りついて、泣いてしまえればいいのかもしれない。頭の片隅でそんな事を思っても、無様に手が震えて身動きが取れない。そんなこちらの思惑を見透かしたかのように、冷たく尖ったナイフのようなその指先がそっと、こちらへと伸ばされる。
「教えてやろうか? 上手な死に方」
「はい……」
しなやかなその指が、くい、と顎を持ち上げる。私はただその滑らかな動きに促されるまま、射るような冷たいその眼差しの奥に映し出された無様な自らの姿を、ぼんやりと眺める。
尊ぶべきものである。
今まで漠然とそう信じてきた命と呼ばれるそれは、自分自身の物ですらここでは価値の無いものなのだと、私は初めて身を以て実感していた。それならもう、どうだって良かった。生きる覚悟も、死ぬ勇気も。その両方を持ち合わせていないというのなら、いっそこの男によって、今のこの無様な自分を殺してほしかった。
ゆっくりと瞼を閉じれば、瞼の裏に暗闇がそっと忍び寄ってくる。その中でも、焼きついたようなあの赤い残像はチラチラと鮮やかな影を落としているのは変わらない。
尖った指先がそっと、まだ湿った唇の上をなぞる。煽るようなその手つきに、息が詰まるような感覚に襲われるのを私は感じる。
「…………イリーナ」
「はい」
僅かな身震いと共に、私はそっと重い瞼を押し開く。視界の向こうが明るい。視線のその先では、いつものようにどこか得意げに、薄い唇をゆがめてうっすらと笑って見せる男の姿があった。
微かなその"期待"を裏切るかのように、触れた指の先をそっと引きはがしながら男は答える。
「止めとくわ、やっぱり」
「え……、」
戸惑いを隠せない無様な私を前に、レノは続ける。
「悪ぃけど、死にたがってるような女には興味はないんだぞ、と。お前が生き返ったらまたそのうち教えてやるよ。だから自分で考えろ。これからどうするのか、どうしたいのかも、全部」
突き放すようなその口ぶりとは裏腹に、その瞳の奥の光はとてもあたたかい。それに応えるかのようにぎこちなく笑って見せようとすれば、からからに渇いた唇の端が、僅かに痛む事に気づく。
生きているのだ、と思った。こんな私でもまだ、生きようとしている。痛みは体が訴える、何よりものその証だ。
「……はい」
力なくそう答える私を前に、レノはどこか得意げに、うっすらと笑って見せる。
結局、私が"それ"を知らされる事となったのは、それからもう随分経った後の事だ。